恋とボルバキアを見た
ちゃんと書けるかはわからないけれども、感想みたいなものを書きたいと思った。
(長くなった)
ほとんどツイッターで書いた通りで、そんなに深い考察とかはない。
ただただ、出演している人たちは『生きる』とか、『存在』とか、『恋』とか、そういうものについて真摯に取り組んでいるなということだった。
恋とボルバキアの感想は本当に上記に書いたようなことでまとまってしまうわけなんだけど、それこそをもし監督が見せたいのだとしたら、もうまるっと大正解だと思う。僕は出演者の人たちの何人かを一方的に知っていて、そうなんだなっていう気持ちはたくさんあった。
もちろん知らない人が大半だったけれども、それでも、そうなんだなって思った。
同時に僕はカメラを持った監督が非常にドライだなと感じたし、監督としての、追いかける熱みたいなものはあまり感じられなかった。映像の向う側にある人生というか、被写体になっている人たちの想いみたいなものを強く感じた。
だからこそ、よりいっそうその向こう側にいる、写っている人たちの強さとか、真面目さとか、まともさに当てられた感じになったのかもしれない。
恋とボルバキアを見て思うことは十人十色だと思うのだけれども、確かに大衆受けはしないのだけれども、誰でもが見ればいい映画だと思った。強制力とかはなく、絶対に見たほうがいいよ!と言うものではない、けれども、見なかった分だけ人の人生を見逃しているのではないか、みたいな思いにさせられる映像だった。
話は逸れるけれども、せっかくなので自分の紹介をしたいと思う。
僕は恋をしやすいタイプだった。いわゆる恋愛体質というやつだ。だから付き合った人も多ければ、色んな経験もしてきたつもりだし、そこに関しての異論はない。
いい年をしてからただ一つ見えたことは、僕は極度の面食いであり、恋する相手に性差はないということだった。(女性が圧倒的に多いことは否定しない)
僕は、自分を男性でも女性でもありたくないと思っている。色んな可能性を捨てたくないというのがいい方の意見、なんでも良いじゃないか、僕は僕でしか無いよ、というのがあまり良くない方の意見。
なんでこんなことを吐露するのかというと、恋とボルバキアの向こう側にいる人達は強く自己を持っていたことが印象的だったからだ。
王子とあゆちゃんはちょっと自分とどこかにているなと思ったが、僕は身体的には完全に男である。そう言う意味では王子とあゆちゃんと一緒にしてはいけないような気がするけれども。
そうでない出演している方たちは『何か』でありたいのだと強く感じた。
その何かでありたいという思いは、強く胸を打つものなのだろう。だからひどく嫌悪したり、ひどく惹かれたり、興味をひいたりするのだろう。
僕という自己はそれについて全く興味がない。
確かに、仕事がなくて非常に今は不安定に思っているし、これからどうなるのだろうという漠然とした不安はあるのだけれども、そこと性別はまったくもって関係がなし、今ここで話すべきことではない。
よく、『よしだしは他人に興味が無いからな』と言われるのだけれども、半分正解で、半分はまるっきり不正解である。僕は人間のことが好きだし、できればその人のことを骨の髄まで知りたいと考えているのだけれども、この世の中には70億もの人間が居て、その何%かに日本人が居て、その殆どについて僕は知りたいと思っている。でも現実問題はそんなことは出来ない。僕が関わることができるのほんの一握りの限られた人間だけだ。
そうして、僕は単純に諦めたのだ。
僕には恋があっても愛がない。目的としての恋がある。成就されてしまったら、そこで終わってしまう。
けれども、恋とボルバキアの被写体の皆さんは、自分が何者であるのか、その想いの行き着く先が何であるのか、それを真剣に受け止めようとしているように見えた。
自身をきちんとのその恋の中で見つけようと必死にしようとしているように見えた。
お互いの関係の中で、本当に欲しいものを見つけて、涙するシーンもあった。それは幸せなことではないかと思った。僕にはそれがない、無である。
僕は無理から、数字に固執したいと思うこともあった。いや、数字に固執しようとしている。しかし、それすらも僕は、どこで他人事で、まぁ、そういうこともあるよねっていって、真剣に取り合おうとしない。自分の人生についてあまりにも無責任だ。もちろん理由はあるのだろうけれども。
LGBTとか言われてる。色んな所で、いろんな人達が声を上げてる。僕は井上さんとちょっとにてる。
重い。そうじゃないんだよって思う。
もちろんそれはそうして行きていくことをはっきりと言えない社会があって、あゆちゃんのセリフに、『200社受けて取り合ってくれるのは1社だけ』みたいなこともあるだろう。でもそれは現実だし、確かにそのために門戸を開く社会があっていいと考える。井上さんや井戸さんみたいにその人達の居場所を作ってみるのも形は違えどあるかもしれない。
僕は、でも、それは在り様の問題だと思っていて、自身が何かになりたいなら自身でつかむしか無いんだと。
そういう意味で僕は男性でも女性でもない何かなのだとはっきりと分かってきた。ホルモンを打たないのは、自分が男でいるため。女装するときにできるだけ男性性を消したいと考える(フリフリひらひらの可愛い服を着たい)のは、普段男でいる自分を真っ向から否定したいため。中性とは違う。どちらでも良いし、どちらでも在りたくない。そんなちょうどいいところがないことや、そこを認めてくれる都合のいい恋人なんて現れないことはもう知っている。
そういう意味で僕は恋をも諦めてしまったのだ。
最後に、恋とボルバキアは、それなりに多くの人にみてもらうべき作品だと思う。
自己とは何か、自分の有り様について様々な角度で悩む全ての現代人に、こんなにも自己と真摯に向き合う人達がいるんだと、気が付かされる。
そんな映画だと思う。
お正月番組で笑い疲れたよ、明日から仕事だわ、なんでおれ仕事してんだろうなって人たちにもいいと思う。生きるってことはサバイブしていくことなんだ。
すべての恋は実らなくていいい。全ての想いは成就されなくていい。ただ、その時の最善と後悔しない人生を送れるように願っている。
こんな長文を書かせてくれた恋とボルバキアにありがとう。
0コメント